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広島地方裁判所 昭和35年(ワ)393号 判決 1967年7月27日

原告 清水敬喜

<ほか六名>

右七名訴訟代理人弁護士 椢原隆一

被告 清水敦

<ほか九名>

右一〇名訴訟代理人弁護士 藤堂真二

主文

原告らが広島県賀茂郡八本松町大字吉川を貫流する椛木川の地水を同大字岩崎新池の北下方「さいの神井堰」において別紙目録記載の水田にかんがいする、被告らとの共同水利権を有することを確認する。

訴訟費用は、被告らの連帯負担とする。

事実

(原告らの申立て)

原告ら訴訟代理人は、主文同趣旨の判決を求めた。

(請求の原因)

原告ら訴訟代理人は請求の原因として次のように陳述した。

一、原告らは、広島県賀茂郡旧吉川村(合併して八本松町大字吉川)横野谷部落に属し、主として同部落内に別紙目録表示の水田を所有耕作し、被告らは同村岡野原部落に属し、主として同部落内に水田を所有耕作するものである。

二、右吉川村を貫流する椛木川(カワノキガワ、又はカバノキガワと呼ぶ)は横野谷地内を流れ、その流域と下流に原告らの耕作する農地がひらけ、歴史的にはその流域がはやくから開発され、椛木川の水利権は横野谷在住の農民が集団的に独占してきたところである。

三、その後、人口がふえ、二男、三男等が分家独立して新田を開墾したのが、岡野原即ち被告らの先祖の部落であって、横野谷の流域に比して高い場所に位する。

四、そこで、古い時代に岩崎新池を構築して両部落の用水池とすると共に、同池の下手(北方)椛木川の水流に「さいの神」井堰を築造し、右岡野原部落に通ずる水路を設け、それまで横野谷農民が独占してきた椛木川の水利を分与することとし、右新池の水を落とすときには右井堰、水路をとおり、字焼野山にある大池(岡野原のみの用水池)の下手の切子において横野谷及び岡野原に平分する方法をとり、新池の池水を落とすのは日中に限り、夜中はこれを禁じ、池水を落とさぬときは椛木川の流水(地水と呼ぶ)のみに頼り、これを前記「さいの神」井堰において半分は川おとしをして横野谷へ流し、残り半分は被告らの部落につうずる水路へ流すのが古来の慣行であった。

五、原告らの水田面積に比して、被告らの水田面積が広いにも拘らず、右のように新池の池水及び椛木川の地水とも、原告らの先祖農民が半分の水利権を享有してきたのは、古田優位、新田劣後の一般的慣習に基づくものであって、異を挾むにはあたらない。

六、昭和三一年に至り「さいの神」井堰はコンクリート造りに改修されたが、その頃から被告らは、旧来の慣行を一方的に破り、同井堰上流の椛木川の地水を被告らが独占する権利があると主張して譲らないので、原告らは被告らとの間に右地水につき共同水利権を有することの確認を求むべく請求の趣旨記載の判決を求める次第である。

(原告らの主張、反駁)

原告ら訴訟代理人は、被告らの主張に対し次のように反駁主張した。

(一)  およそ水利の争いは、数年間に一度あるかないかの異常のひでりの時期においてのみ問題になるものであり、近来原告らが本件井堰で毎年常時水を引いていなかった事実をとらえて、被告らは、原告らに水利権がないように主張するが、それは皮相の見解で、水利権の核心を看過したものである。

(二)  原告らの主張は、祖先の伝承、古文書の記録に基づき根拠のあるものである。それによれば、新池の池水を落とすまでは、本件井堰は石ばかりにてせき、池水をおとすときには土をまじえて塗堰にしてもよいとある。

(三)  椛木川は、本件井堰のさらに上流地点において堰があり(別紙図面1に該る)、そこから水路をとおり岩崎新池に注がれていたものであるが、終戦時大水害があり、川の底が堀れて取り入れが困難になった為め昭和二九年頃から注水は止ったが、原告らが本件井堰の上流水に全く権利がないとする被告らの主張は誤りである。

(四)  本件井堰の構造をみるに、その中央に切込みがしてあり、その切込みの底は、岡野原へ向う水路の底と同一の高さにある。このことは、椛木川の水利を被告らが独占すべきでないことを示している。

(被告らの申立て、答弁)

被告ら訴訟代理人は「原告らの請求を棄却する。訴訟費用は原告らの負担とする。」との判決を求め、答弁として請求の原因事実のうち、岩崎新池の水を落としたとき原告主張の切子で横野谷と岡野原とが池水を分けること、右は日中に限り夜中は池水を落とさない慣行であること、昭和三一年本件井堰がコンクリート造りに改修されたことは認めるが、その余の事実は争うと述べた。

(被告らの主張)

被告ら訴訟代理人は、原告らには共同水利権がないことにつき次のように主張した。

一、本件「さいの神」井堰から上流の水は、岩崎新池に貯溜されるもの以外は、古来被告らの耕作する岡野原水田の専用水であり、同井堰の右岸に設けられた取水口をとおり、大池下手の切子をとおり、岡野原水田に導かれている。この地水を原告ら横野谷の水田に分けたことは百数十年間一度もないのである。これが長年の水利慣行であって原告主張の慣行はない。

二、岩崎新池の樋門の開閉、本件井堰、切子、その間の水路の維持管理は被告ら岡野原の水子のみがしてきたのであって、水利に恵まれた原告ら横野谷のものは、修理費等の負担をしたことはない。

三、原告らの水田面積は、合計二町五反前後であるのに対し被告ら岡野原の水田面積は七町三反弱であるから、面積の点からはもとより、地形的にみて横野谷は低地にあって水に恵まれているので、本件椛木川の地水に対する依存度は被告らの方が遙かに高い。原告らが岩崎新池の池水の共用権を有する上に、なお本件地水に半分の共同水利権を主張するのは、不合理不当である。

四、被告ら岡野原の水田が原告ら横野谷の水田よりおくれてひらかれたことは事実であるが、その被告らの水田にしても人々の記憶にない程古い時期にひらけたものであり、これらの田は当初から椛木川の水利に頼るほかないので横野谷農民の承諾をえて本件井堰を設け、それより上流の水は岡野原の専用水として認められ、今日に至ったものである。

三、原告らと被告らとの間には、四十数年前にも地水をめぐって争いがあり、その時にも原告らは古文書と称して甲第一号証を持ち出した。右は、原告のひとり清水蕃登の亡父清水誉翁の作成したものの如く、その数個所の切りつぎの模様、協議成立したといいながら関係農民の捺印が全然ない点、その他記載内容からみても、その証拠価値に疑問があり、とうてい原告らの主張を理由づける証拠ではない。これを基本とする原告らの本訴請求は全く理由がないものというべきである。

(証拠関係)≪省略≫

理由

まず、原告ら主張の椛木川の水流、「さいの神」井堰附近の水路、池沼の地理的関係は、検証の結果(第一、二回)により、ほぼ別紙図面に示すとおりである(第一回検証調書の第一図面による)。

右「さいの神」井堰上方数百米(南方)の図面表示1に井堰が設けられ、そこから岩崎新池に椛木川の流水を長年にわたり取り入れていたところ、終戦時頃大水害があって取入口が破壊されると共に、川床が掘れて取水することが困難となり、その数年後頃から引水されていない(水路は残っているが)こと、岩崎新池の池水について、横野谷の原告らと、岡野原の被告らとが、半分宛の共同水利権(但し満水面以上の増水部分については後述する)を有すること、その池水を落とすときは、椛木川におとし本件「さいの神」井堰から右岸水路をとおり別紙図面4の切子において両部落の水田にそれぞれ分ける方法が長年とられてきたこと(この場合、おとされた池水が椛木川の流れを通過するので川の地水と一緒になることはいうまでもない。)はいずれも当事者間に争いがない。

さらに、原告らの所有、耕作する水田が被告ら岡野原のそれより歴史的にみて早くひらけたこと、近年被告らの水田の面積が原告らの水田の面積の二倍以上(あるいは三倍近い)あることも当事者間に明らかに争いがない。

原告らは、古く右「さいの神」井堰を開設した当時半分だけ椛木川の流水について被告ら岡野原水子に水利権を与えたと主張するに対し、被告らは、その頃水利権全部を取得したもので原告ら横野谷水子には共同水利権はないと主張するのである。

そこで、古い時代に遡って水利権の態様について審究する。

成立について争いのない(被告らの主張では、これを争い、原告らの提案を記載したに止るともいうが、被告本人宮尾守自らその署名、捺印を認めている)甲第二号証には、「横野谷の関係耕地は、岡野原の関係耕地より少面積なれ共、共同池水利権は二分の一を有し関係費用は平等割にて」の記載があって、≪証拠省略≫を参致すると、右甲第二号証(契約書)は、昭和一四年の大ひでりの後、岡野原には新池に対する水利権のない農地(古地でないもの)があったのでこれに水利権を認めることになり、さらに新池に増築工事をして従来の満水面以上の増加すべき池水について横野谷四、岡野原六の約定ができる等の条項につき、双方水子が時の竹内恭介村長立会のもとに作成された昭和一四年一〇月一日付の契約書であり、原告ら谷側の「古田優位」の考え方が底にひそむものと観取される。

(被告ら訴訟代理人は、原側のうちの新規加入の田(古地でないもの)につき反当三石の加入料が原側の水子にのみ支払われたことにつき、谷側の権利が薄いかの如き主張をするところ、新規に水利権をえた田は、原側に限り、二分された原側の池水を分けて貰うというのであるから、谷側の水子には当然に水の増減をきたさず、影響がないので加入料の分け前を収得しないことも首肯するに足り、これに異を喝える前記主張は理解し難い。)

ついで甲第一号証は、明治二十二年丑二月岡野原分新池用水掛反別人名簿であり、原告本人清水蕃登の父亡清水誉翁(大正四年死亡し蕃登の供述による)の筆になることは、関係人の供述の一致するところであり、各種の記録が同人の筆のまにまに書き残されたものと認められる。

これを仔細に点検するに、

(一)  横野谷川落水掛反別総計二町一畝十五歩(表紙裏)

(二)  明治二十六年八月一日改字横野谷川落新池及押谷池及龍盤魚池用水掛反別帳総計二町一畝拾五歩之内(一一枚目)

(三)  「将又未だ新池水落(さ)ざる時はさい神堰にて其の(この二字は当裁判所の判読により、誤っているかも知れない)半分は谷川へ落し半分は岡の原溝へ上(げ)る事久敷(ひさしく)古例たり(一〇枚目、原告本人浜田巽第一回供述参照)

(四)  依って夜中は地水を分配する事(二六枚目)

(五)  岩崎池水落(し)尽(し)て後は尾垂水少々有(る)も一昼夜は谷落し又一昼夜は大池へ充(つ)る事(同上)(大池が原側のみの貯水池であることは争いがない)

等の記載があり、全体の記載と相俟って右甲第一号証の記載はまじめな事実の記載ばかりでかなり高い正確性があり、諸般の事情にも合致するものといえるので、本件慣行水利権の認定に有力な証拠価値あるものというべきである。

被告らは、右甲第一号証の成立に強い疑惑と批判を加えるけれども、このような古文書がそんなに簡単にみだりに創作できるものとはいい難い。

被告らは、前叙のように、古く「さいの神」井堰築造の時から、右井堰上流の地水は、すべて被告らの専用になったというけれども、上来説示に照らし横野谷の水子が易易と全部の地水を原側水子に譲与したものと認められず、明治廿二年頃から大正四年頃までの間(作成者の清水誉翁の存命中)、前記甲第一号証記載のように、椛木川の地水は、右井堰において半分は川落し、半分は岡野原に向う溝へ上げてその水田の用水として利用されたものとなすべく、その後のある時点において右慣行が変更されて被告らのみの専用になったことについては、被告らにおいて主張しないところである。

右甲第一号証(一六枚目)には、「但(し)此の地水は横野谷水沢山有(る)時は岡ノ原掛り水子中より横野谷掛り水子中へ無心に依れば憐愍する事有(る)べし是は其年の天気の模様に拠(る)べし」とあって、谷側優位の立場が観取され、被告らは「無心」「憐愍」の表現を嫌悪するけれども、本家分家等因縁浅からぬ両部落内において相互に協力扶助すべきことが十分考えられるので、原告らの先祖において平素譲歩(水ききんの時は別として)して、主として地水につき被告らの先祖の水子に利用させた事実があるからといって、「慣行」水利権の内容に変更を加える程の新しい慣行が成立したものとは速断し難いのである。

被告本人為岡正男(尋問後訴の取下がされた)、山川登、宮尾守(第一、二回)及び清水敦らは、自己に有利な近年の水使用の事実を強調し、原側水田の地水への依存度が強く、谷側の水が豊富であること、ひいては原告らに共同水利権はないもののように供述するけれども、大正四年頃と昭和一四年頃の水ききんの時には地水をめぐって争いがあったのであり、前記のとおり甲第一号証その他の証拠により認められる原告らと被告らの共同水利権の慣行に、いささかの消長を及ぼすものとはなし難い。被告ら原側の水子のみが本件井堰の費用を負担してきたとする被告らの主張もそのまま肯認することはできない。乙第二号証を仔細に検討すれば、大正一三年吉川村から金一四円の補助金をえて、これを主財源として改修をしたもので被告らに金銭的出捐は認め難く、被告らの夫役には、日当八〇銭の計算に基づきその割合で若干の金銭の支払がされ、一日分だけは勤労奉仕(こうろくと呼ぶ)をして原側水子の負担が認められるが、右補助金の中から飲食をしている利益もある。また、昭和三一年の改修は国費、町費のみによって賄われ、もともと町当局は谷、原全部の水子の耕作反別による負担を考えていたが現実には負担なしにすんだものである(証人光川仁武の証言による)。さらに乙第一、第三号証をもっては、如上認定の妨げにはならない。

以上のとおり、原告らの共同水利権の主張には首肯すべきものがあり、被告らの主張は、その根拠に乏しく、原告らに本件椛木川の地水につき全然権利なしとする該主張は排斥を免れないので原告らの本訴請求を正当として認容すべく、訴訟費用の負担につき民訴法第八九条、第九三条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 熊佐義里)

<以下省略>

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